第1984号2016年7月10日
書記長コラム 〜春夏秋冬〜 第2回

本稿を書いている今日(6月22日)は第24回参議院議員選挙の公示日です。このコラムが皆さんの目に留まるのは、投票日(7月10日)の前後かと思います。私たちの願いや思いは、選挙結果にどう反映されるのでしょうか、または、反映されたのでしょうか。そして、18歳・19歳の有権者たちは、どのような判断を下す(下した)のでしょうか。

数年前の話になりますが、日教組の加藤委員長(当時)が挨拶の中で、次のように述べました。

「私たち(教職員組合)の政治参画のとりくみは、教育の政治的中立性を守るためである」

ちょっと聞くと矛盾しているようですが、少し時間をかけて考えると(なるほど〜)と思える話でした。私なりに解説してみると、戦時中のように教育を利用しようとする政治勢力が強くなれば、教育の政治的中立性は危機に曝される。だから、私たちは教育が政治的に利用されないように政治参画のとりくみをすすめる、という考え方です。(まだ分かりにくいでしょうか…)

昨年4月から教育委員会制度が新しくなりましたが、法案の検討段階では、教育行政に対する首長(知事・市町村長)の権限が極めて大きくなる案が示されていました。しかし、改正された法律では、教育の政治的中立性を確保するため、合議制執行機関としての教育委員会が維持されました。教育には子どもの実態に応じて柔軟性をもった対応が求められますが、それは学校・教職員がすべきことであり、教育行政においては、安定性・継続性とともに公正公平性・中立性が何よりも大切にされる必要があります。

ところで、この「政治的中立性」とは何でしょうか?例えば、「あなたは政治的に中立と思いますか?」と問われた場合、どのように判断すればよいのでしょう。政治的な言動をしないことが「中立」なのでしょうか。それとも、教科書に書かれていることや政府見解が「中立」なのでしょうか。私は政治的中立性とは「すべての意見や考え方が尊重されること」だと考えます。ドイツでは、授業で政治的な内容を扱うとき、教員も自分の考えを述べ、ディスカッションに加わるそうです。もちろん、子どもたちは「先生の考えが絶対に正しい!」という姿勢ではなく、お互いの考えを突き合わせて合意点を探っていくとのことです。以前、ドイツを訪れたとき、ビアホールで隣の席にいた二人の客が、ソーセージとマッシュポテトを挟んでビールを片手に熱く議論していました。話の内容は分かりませんでしたが、二人にとってディスカッションが最高の‘おつまみ’だったのかもしれません。日本もそろそろ「政治の話はちょっと…」から卒業する必要があるのではないでしょうか。

(静教組書記長 赤池 浩章)