第1983号2016年6月25日
第103回静教組定期大会〜理念の具現化をめざす年に〜

執行委員長あいさつ(要旨)
〜主権者としての意識を高め、「自由」と「権利」を守るための警鐘を鳴らす時〜

静岡県教職員組合
執行委員長
 鈴木伸昭

熊本地震のような大きな災害が起こると、あって当たり前と思われることが実は当たり前でないことに気づかされます。水道や電気・ガス、通信機能・交通機能等のライフラインの供給は勿論のこと、働くことや学ぶことといった自分の意思に基づく行動が自由にできるということも、私たちが生活をしていくにあたっては実に幸せなことです。そうした「当たり前」を支えているのは、自然の恵みであったり私たち自身の努力であったりしますが、その一つとして忘れてはならないのが実は憲法の存在です。誰もが平等に生きる権利、教育を受ける権利、選挙権を得る権利、勤労者が団結する権利、学問の自由、言論の自由、職業選択の自由、婚姻の自由等々、ごく当たり前と思われることが憲法によって保障され、私たちの生活を支えています。しかし、現在の政権党が野党時代に掲げた「改憲草案」を読むと、国民に憲法尊重義務を負わせることを明文化し、国民と国家との関係を逆転させ、国民は国家のための存在と位置づけていることがわかります。また、軍隊の保持を明記し戦争放棄の文言は破棄するなど、現行憲法の本質から大きく変容しています。本来、憲法は権力を縛る規範であり、権力が濫用されることのないよう歯止めをかけるためのものです。また現行憲法は他に類を見ない平和主義国家としてのあり方を諸外国に示すものと評価されています。主権は国民にあって、権力をもつ側は常に国民の意思を尊重しつつ政治を行うことが健全な民主主義社会の姿であり、平和な社会の形成にもつながります。「立憲主義」と呼ばれるこの基本的な考え方が、今、危うい状況にあることを私たちは認識しなければなりません。最近では報道への圧力とも受け止められる政治的発言が話題になるなど、じわじわと民主主義社会のあり方を変容させようとする動きも見られます。ある新聞への投稿で「あの国を自由がないと笑えない」という風刺川柳を見かけました。程度の差はあれ、大切な「自由」と「権利」が制約される方向に動いていることを感じます。今はそうした感覚をもつ者が様々な場で警鐘を鳴らし、健全な危機感を高めていく必要のある時ではないでしょうか。「まさか」という坂は、気づいたときには転げ落ちていると言われます。私たち自身が主権者としての意識をしっかりと高めておかなければならないと考えます。

7月の第24回参議院議員選挙では、小学校教員の経験を生かした教育現場の代表として「なたにや正義」さんを、額に汗して働く勤労者の代表として「ひらやま佐知子」さんを国政に送り出さなければなりません。政治には無関心ではいられても無関係ではいられません。主権者教育の必要性が論じられる中、教育に携わる私たち自身が主権者としての学びを大切にし、実践に移していきましょう。