第1978号2016年4月10日
主権者としての学びは生涯に亘り、社会全体でなされるもの

静岡県教職員組合
執行委員長
 鈴木伸昭

今夏の参議院議員選挙から、選挙年齢が18歳に引き下げられます。若者が政治に参画できる機会が拡大され、これを機に若者による政治への関心が高まることが期待されています。ただ今回の選挙制度改革は、1925年の普通選挙法制定や1945年の女性参政権獲得の時とは異なり、新たに選挙権を得る約240万人の若者にとって「悲願の権利獲得」にはなっていません。かつては、選挙権が一部の国民にしか付与されなかったことに対し、怒りや不満とともに民主主義を求める強い願いが運動となり、弾圧に抗しながらも権利を勝ち取ってきましたが、その時代とは背景が大きく変容してきています。当事者であるはずの若者は、ある日突然権利を与えられたことに戸惑う感があり、むしろ周囲の大人が躍起になっていることが妙に不自然です。そのためか、18歳選挙権を機に論じられるようになった「主権者教育」も、当事者である若者の思いより大人の思惑が先行する事象が見られています。さらには「主権者教育」の対象として高校生ばかりが注目され、小中学生や大学生を含む若者世代へのアプローチはあまり取り上げられていない点にも違和感があります。社会を形成する主権者としての自覚を促す学びは義務教育においても必要であり、また生涯に亘って持続されるべきものです。そもそも各種選挙の投票率が停滞し、選挙によっては50%を下回るような事態が生じていることからすれば、高校生ばかりに「主権者教育」を押し付けるよりも、年代を問わず大人自身が「主権者学習」に努め、その後姿を見せることの方がむしろ効果的な「主権者教育」になるのではないでしょうか。

また「主権者教育」のあり方とともに、高校生の政治活動への参加のあり方も議論となっています。校外における政治活動への参加を学校に届け出る必要があるか否かという議論です。学校内における政治的な活動は、通常の教育活動を妨げることになりかねないので、他の生徒の学ぶ権利を保障する上で一定の制約があっても致し方ありません。しかし、校外における活動まで学校が制約することはいかがなものでしょうか。ここには、必要以上のことを抱え込む日本の学校教育の特性が垣間見られます。欧米では、学校の門を一歩外に出れば、そこでの行動は本人なり家庭の責任において為されます。むしろ、そこに学校が踏み込むことは越権行為とされる場合もあります。本県を含め、届け出不要との方針を示す自治体も多いようですが、そのような流れを自然のこととして受け止める感覚が醸成されなければ、主権者としての学びを社会全体で支えることにはならないでしょう。

今夏の参議院議員選挙は、新たに選挙権が付与された世代のみならず、社会の形成に責任を負う主権者として、各世代の国民が遂行すべき権利と義務を問い直す機会として捉えたいものです。歴史的経緯を踏まえれば、選挙権は民主主義を確立するために勝ち取ってきた貴重な権利であることは明白です。静教組は全国比例区で「なたにや正義」さん、静岡県選挙区で「ひらやま佐知子」さんを組織として推薦し、必勝に向けてとりくみます。そのとりくみの中において、私たち自身も主権者としての学びに努め、次の世代への「主権者教育」の基礎を作っていく必要があるのではないかと考えます。